長兄 今野清治
純粋培養技術の確立

 醤油の醸造過程は微生物の発酵によるものでありこの面での改善もまた必須です。
 明治になって、伝統産業の醤油醸造を近代科学の目で見直そうという動きは、先ず日本にやって来た欧米のお雇い学者が、温度計を使って醸造過程を記録することから始まりました。
 しかし醸造現場では、よい醤油醸造の基となる「友麹」が、導入されたくらいで、これというものはなく、相変わらず、旧来の杜氏と蔵人による名人芸に頼った醤油造りが行われていました。
 河又醤油の試験所長今野清治(こんの せいじ)は、選抜した優良菌を純粋培養で増やし、醤油麹を製造するという画期的な手法を、我国で初めて実際の醸造現場で行い、成功しました。大阪高等工業学校(大阪大学の前身、明治28年設立)、明治34年、全国で初めて醸造学科(醗酵工学科、応用生物工学科の前身)を設け、当時、坪井仙太郎教授が顕微鏡を使って麹菌を選抜し、優良菌を純粋培養するという、西洋でも最先端の技術を教えていました。その指導を受けた第4回生の今野清治(秋田県仙北郡刈和野町、現大仙市出身)が明治38年卒業と同時に河又醤油に入社し、直ちに新設の河又醤油醸造試験場の所長として醤油の麹菌の純粋培養に着手しました。同年秋には早くも優良麹菌を発見し、それを用いた仕込みで良好な成果を挙げました。それまでは、蒸した大豆と炒って挽き割った小麦を混合したものを麹蓋(「こうじぶた」内のり縦約45cm、横約30cm、深さ約3cmの木箱)に盛り込み、麹室の棚に並べて置くとかびが発生し、これをもとに麹を増やしていきました。よい蔵というのは、優良な菌の胞子が浮遊している蔵で当然、蔵には蔵グセがあり、汚染菌が侵入しやすいクセを持つ蔵もありました。
 友麹は、前回出来上がった麹の一部をとっておき、これを種麹として使うやり方で、自然発生に俟つやり方よりはやや改良された手法ですが、良い友麹を維持するのは、親方である杜氏の最も重要な仕事で、良い醤油をつくる最初の難関でもありました。しかし、如何に長い経験とすぐれた勘があっても、優良な友麹を安定して供給することは至難の業でした。よい蔵に良い麹菌が住み着いているといいますが、自然界のことですから、いろいろの種類のかびや細菌も同じように付着・浮遊しています。また、有用菌そのものが年を経て、生殖能力が低下したり、或いは、けかび、くものすかび、青かびなどで汚染されたりすると、味も悪く、色もどす黒く、異様な臭気が出たりします。
 純粋培養は、優良麹菌を選抜し、単胞子から育成する作業を繰返し、純粋株を固定することで、シャーレに展開した培地に希釈、懸濁(けんだく。液体内に微粒子の浮遊する状態)させた麹の胞子を撒き、発生して来る麹かびの集落(しゅうらく。集団。コロニー。)の形や色などで区別し、更には顕微鏡下でその形態を調べるなどして、多種類の麹かびを分類し、単離し、醤油麹としての生理的な特性を比較し、その優良株を無菌的に植継ぎ保存することです。
 このような作業で選抜、純粋化した最優良菌を河又菌と命名、後に発見者の名を冠して今野菌と名を変えて、希望者に惜しみなく頒布しました。
 河又菌を種菌として使うことにより、麹作りが容易になったのは勿論のこと、繁殖力が旺盛で有害菌の侵入を防止し、仕込み後に強烈なタンパク質分解作用を起こして独特の風味を醸成し、完全な糖化作用を行うことで酵母菌による適度のアルコール醗酵を誘発し、芳醇な香気を生ぜしめる等極めて優れた特色を持つに至りました。
 今野清治は河又醤油の試験所長として在籍のまま、明治43年弟繁蔵、謙吉と共に京都に今野商店を設立し、後に大阪に移転してから、モヤシ製造部と機械製造部の二部門に拡大し、全国展開を図りました。優良麹菌は、北は東北から南は九州までの需要を充たすため、粉末にして小袋に詰めて郵送しました。
 この技術は、今日の品質管理の原点とも言うべく、種麹を使用した同業者に大きな喜びを与えたばかりでなく、広く醤油の品質の改善と向上に大きく貢献したことは言うまでもありません。

 機械製造部では、河又醤油の機械化成功と併行して多くの特許を取得し、大正10年4月、創立10周年を記念して創刊された雑誌「醸造界」(大阪市西区)を通して醸造機械・器具を販売しました。
今野清治は、この雑誌に常に論文を発表し、昭和初年までに同誌には醤油技術者の論文59件、酒造関係者の論文46件が掲載されています。
 今野清治は、昭和8年11月13日に他界し、その早世を惜しまれましたが、志は遺族に受け継がれ、今の大阪の株式会社今野商店と実家のあった秋田県大仙市刈和野で株式会社秋田今野商店として麹菌の研究と全国へのモヤシの供給が続けられています。
 今野清治の在世中、彼を慕って河又醤油の試験場で、実習に励んだ後輩や同業者は弟子は多く、銚子醤油株式会社(現ヒゲタ醤油株式会社)の取締役製造部長をつとめた山崎善一氏は、明治42年7月、大阪高等工業学校醸造科を卒業し、兵役に就くまでの約半年間、今野清治のもとで助手として勤務しました。明治43年には醤油工場で最も難事なもろみ攪拌を河又醤油では既に圧搾空気によっていたと述べています。(調味科学、1974年5月)。
 今日の醗酵工業をリードする協和発酵工業株式会社を興された加藤辨三郎博士は、京都帝国大学工学部在学中の大正11年、卒業論文実習に河又醤油を訪れ、今野さんからいろいろ教えを受けたと述懐されています。
 また、大阪高等工業学校で後輩の川田正夫氏(カワタ工業株式会社前社長)は、父親が尼崎で醤油系の調味科を造っていましたが、昭和6年に学校を卒業すると河又醤油の今野清治から、麹かびの顕微鏡標本作りをさせられ、一回の標本を採るのに50回もやらされたといいます。一回に1時間要するとして繰り返し50時間もかかるわけです。これで川田氏はプレパラート作りに自信が持てるようになりました。また今野清治は「こんな、目に見えるゴミの沢山ある所では、目に見えない菌を扱えない」と口癖のように言い、掃除ばかりさせられ、すっかり掃除好きになったと感謝の気持ちを書いています。後年、河又醤油の工場が清潔を旨として掃除を徹底していたことは今野清治の指導の宜しきを得た結果です。
 河盛又三郎は、今野清治という得難い技術者を迎えたことで彼の多年の懸案であった醤油業の革新をハード(機械化・量産化)とソフト(醸造技術の品質管理)の両面から実施に移すことができました。
 河盛又三郎は、実業精励の廉により、大正2年12月9日、勅定緑綬褒章を賜ってその構成を顕彰されました。

日本醸造協会誌第96号 第6号 338(2001)より転載