秋田今野商店

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第91回~第100回

第91回 2018年1月20日

[温故知新]海を渡った偉人に思う 今野宏(寄稿)

 ◇秋田今野商店社長

 ニューヨークのブロンクスにあるウッドローン墓地を訪ねて来ました。東京ドーム152個分の広さを誇る巨大墓地公園に30万人が眠っています。私がここを訪れたのは二人の日本人の墓参りをするためでした。一人は野口英世、そしてもう一人は高峰譲吉です。
 野口英世は24歳で渡米し多くの病原菌を発見した不屈の精神と努力の人ですが、アフリカで黄熱病の研究中に51歳で病死しました。彼の業績は高く評価されノーベル賞に3回もノミネートされています。黄熱病は伝染病ですから本来なら野口の遺体は現地で火葬されるはずでしたが、彼の棺桶はハンダで密閉されアメリカ本土に送られました。彼が所属していたロックフェラー財団のはからいで棺を開けることなくウッドロー墓地に土葬されたと言います。彼は小児麻痺や狂犬病、黄熱病の病原体を細菌だと思い込んでいたようですが、その実体は細菌よりもっともっと小さい光学顕微鏡では見えないサイズのウイルスでした。電子顕微鏡が発明されたのが1931年ですから、まだその病原体であるウイルスを見ることが出来なかったのです。野口の墓はおにぎりの様な形をした天然石で、埋め込まれ銅版には彼の業績が刻み込まれていました。
 もう一人は依然このコラムで紹介した高峰譲吉です。米国でビールを造る際に麦芽(モルト)より安価でデンプン糖化率の良い麹を使う方法を考案したのですが、モルト業社に工場が焼きうちにあってしまいました。失意のなか彼は別の方法で麹をビジネスに結び付けました。麹の造る酵素を取り出してタカジアスターゼを消化剤として売り出したのです。巨万の富を手に入れ勢いに乗った高峰はその後、アドレナリンを発見しました。高峰は伝統の技を近代産業に結び付けた人として米国バイオテクノオジーの父と呼ばれています。日本では製薬会社の三共(現第一三共)の創設者としても知られています。高峰の墓は4畳半程もある大きな石室で、青い空と富士山を描いたステンドグラスがはめ込まれ、そこにあたった光が中に美しい虹を作っていました。
 今から100年以上も前に海を渡り、苦労の末に偉業を成し遂げた先人に改めて尊敬の念を抱いた墓参でした。

第92回 2018年2月10日

[温故知新]ツバをつければ治る!?  今野宏(寄稿)

 ◇秋田今野商店社長

 フレミング(英国)はペニシリンの生みの親です。ペニシリンは青カビから作られ、人類の寿命を10年延ばしたといわれる歴史的な大発見でした。この発見は全くの偶然から生まれました。ある日、フレミングがシャーレと呼ばれるガラスで出来た小さな皿で化膿菌を培養していたところ、空気中から青かびが入り込んでしまいました。フレミングさん、こともあろうにシャーレの蓋を開けっ放しで休暇を取ってしまったのです。こうなったらシャーレの中は青カビだらけになってしまい化膿菌の培養はできません。フレミングさんかなりずぼらな先生だったようで化膿菌と青カビの混在したシャーレを直ぐに捨てることなく放置したのです。しばらくしてシャーレを見ると、な、なんと、青カビの周りだけ化膿菌が消えていて、いかにも化膿菌が青カビを嫌っているようでした。ひょっとしたらこのカビは化膿菌の生育を防ぐような物質を出しているかもしれないと彼は気づいたのです。フレミングはその後フローリーとチェインの協力を得て青カビからペニシリンを作ることに成功し、昭和20年ノーベル賞を受章しました。
 実はこのフレミング先生ペニシリンの前にもうひとつずぼらが招いた大発見をしています。風邪をひいた彼は、こともあろうに培養していた化膿菌の上にポトリと鼻水を落としてしまいました。そしてそのまま放ったらかしていたのです。するとすごいことが起きました。鼻水の落ちた周りの化膿菌が死滅していくのです。驚いた彼は鼻水だけでなくツバや涙でも試し同じ物質が含まれていることを発見しました。これはリゾチームとよばれる溶菌酵素によるものです。鼻水やツバ、涙に含まれる酵素が細菌の細胞を溶かしていたのです。このリゾチームは今でも風邪薬の中に「塩化リゾチーム」として配合されています。フレミングのリゾチームの発見は大正10年、ペニシリンの発見はその7年後です。
 子供の頃、転んで血が出ても「泣くな!ツバをつければ直ぐ治る!」と言われたのには、実は科学的な裏づけがあったのです。フレミングの世紀の大発見よりずっと前からツバの効用を民間療法とし伝承していたことは驚きに値します。このコラムのタイトル「温故知新」そのものです。案外世紀の大発見は足元にあって、ただそれを凡人は気付かないだけなのかもしれませんね。

第93回 2018年3月10日

[温故知新]純金より高い枯れ木片  今野宏(寄稿)

 ◇秋田今野商店社長

 先日、ソウルでタイ人からある相談を受けました。「香木について」です。香木とは樹木から採れる香料全般のことですが、通常は「白檀」「沈香」「伽羅」のことを指します。
 「白檀」はお香の原料や数珠に使われます。夏に使う扇子をパッと開いた時に香るふんわりした優しい懐かしい香りも白檀の香りです。鎮静効果があり瞑想にもよく使われます。この香り成分の中に男性の汗とよく似た物質が含まれているためシャネルの香水「エゴイスト」などにも使われています。白檀の催淫作用は異性を惹きつける香りとしてあまりにも有名です。この香木は熱を加えなくても芳香を放つ木固有の香りといえます。
 一方「沈香」は東南アジアの熱帯雨林で産出される香木で、熱することによって芳香を放ちます。沈香を焚くと幽玄な甘い香りが漂よって心身を癒し、仏教などの宗教行事では梵火として欠かせないものです。沈香は日本の香道でも不可欠です。ジンチョウゲ科のアキラリア属の樹木の幹から採取されます。50年以上の老木や虫食い、動物に痛めつけられた幹などにある種の微生物が感染すると表皮もしくは内部に黒い樹脂状の液層ができます。それが長い間、地中に埋まって沈香になります。
 「伽羅」は沈香の特に上質な光沢のある黒色の物を優良品として呼ぶ名称です。香りの生成に長い年月を要し産出量が僅少にもかかわらず乱獲されたことから現在ではワシントン条約の希少品目第二種に指定されています。古来よりその価値は純金より高価です。正倉院にある蘭奢待(らんじゃたい)は、伽羅の中でも最高級品と言われています。
 沈香生成菌には麹カビや青カビなど7種類のカビが関与していると、最近インド人の研究者により明らかにされました。中でもユーロチウム・ルブラという麹菌の仲間は沈香生成に大きな役割を果たします。実はこのカビ、日本の鰹節を作るときに使われるカビです。彼のタイ人は香木の素になる樹木にこれらのカビを接種して樹脂を作り出し、人工的に沈香や伽羅を作ることができないかと考えたのです。そこで菌を作ることを生業としている私に相談に来たのです。これで一山当てようというわけです。私を魔法使いとでも思っているのでしょうか?さてさて上手く行くか行かないか?私たちの博打は始まります。

第94回 2018年4月17日

[温故知新]アマゾンの酒「サクラ」  今野宏(寄稿)

 ◇秋田今野商店社長

 前回このコラムの最後に、「秘境アマゾンの集落に滞在した」と書いたところ、多くの方から是非その話を聞きたいというお声を頂きましたので何回かに分けて紹介することにします。
 先月、私は30年来のオランダの友人と彼の生まれ故郷南米スリナム共和国の首都パラマリボに向かいました。そこから5人乗りの小型飛行機で1時間半余り飛び、ブラジル国境に近いパラメルというタパナホニ川流域のアマゾンの村に4日間滞在したのです。道はなくゆったりと流れる河を木彫りの舟での行き来です。電話も電気もありません。
 日本人を見るのは初めてという原住民のワジャナ族のインデアンたちは極めて友好的で「カシーリ」や「サクラ」と呼ばれるキャッサバイモから造られた酒を振舞ってくれました。
 キャッサバは日本の甘味の少ないサツマイモのような食感がありますが、加熱処理をしなければ食べられません。キャッサバの中にリナマリンやロトストラジンと呼ばれる猛毒の青酸化合物を含んでいるからです。毒抜きをせずに食べれば死に至ります。この毒は水に溶けるので水に溶かし、加熱して解毒したものを日常の食事や酒に使うのです。キャッサバから出来るタピオカ粒はモチモチした食感がありタピオカティーとしてご存知の方もいるかもしれません。
 アマゾンの酒の作り方は2通りありました。そのひとつが「サクラ」です。「サクラ」は毒性の強い白色のキャッサバを圧搾し、天日で乾燥してからふるいにかけて粉にします。これに水を加えて練り、薄く延ばしてパンを焼くのです。このパンに水と紫色のサツマイモ「ナピ」を少量加えて4日ほど発酵させて「サクラ」が完成します。「サクラ」とはよく言ったもので、その色たるや、まさに桜色!語源を長老に聞くと日本の桜との関係はわからないとのことでした。この酒は酵母の匂いが強く、慣れるまで大変でしたが、酔いが廻れば気にもなりません。アルコール度は4%前後というところでしょうか。飲み干してから次の酒を注ぐあたり、ビールを彷彿させました。
 実はこの「サクラ」と「カシーリ」にはびっくりするような秘密が隠されているのです。次回はその話をしましょう。

第95回 2018年5月29日

[温故知新]アマゾンの酒、未知の微生物 今野宏(寄稿)

 ◇秋田今野商店社長

 前回に引き続きアマゾンの酒の紹介をします。
 タパナホニ川流域の村には「カシーリ」という酒もありました。「カシーリ」は毒性の弱い黄色いキャッサバを原料にします。「カシーリ」は「サクラ」の鮮やかな桜色の酒と異なり泥色をしており、それをザルで濾して椰子の殻で飲むのです。飲むのを躊躇していたらインデアンたちの強いまなざしを感じ、覚悟を決めて一気に飲み干しました。するとこれが結構いけるのです!
 驚くべきことに「サクラ」「カシーリ」とも自然発酵の中には麹菌や酵母といった種菌を使うことが全くないにも関わらず、水を加える前のキャッサバ粉からは甘酸っぱい発酵臭が漂っていたのです。麹に含まれる糖化酵素は米のデンプンをブドウ糖に、麦芽の糖化酵素は大麦のデンプンを麦芽糖に変換して、初めて酵母がそれを食べアルコール発酵するのです。ちなみにワインは元々原料の葡萄に果糖が含まれていますから糖化酵素は必要ありません。そのため酵母は一気にアルコール発酵します。ヒトの唾液の中にもデンプンを糖に変える糖化酵素が含まれています。ですからご飯を噛んでいると唾液の酵素が作用してやがて口の中のデンプンはブドウ糖に変換されて甘さを感じるようになるのです。
 一説には「カシーリ」と「サクラ」は女性が口で噛んで吐き出して混ぜて発酵させると言われています。まさに唾液酒です。しかし私が見た限りでは、口で噛んで吐き出すという重要な工程は確認できませんでした。きっとこの中には私たちの知らない麹や麦芽や唾液に代わる糖化酵素を造る未知の何かが潜んでいるに違いないと興味はつのるばかり。しかし何の設備もないアマゾンの奥地では調べようがありません。そこでいつも持ち歩く小さなチャック付きのビニール袋にサンプルを採取し日本に持ち帰りそこ潜む微生物や酵素を調べてみることにしました。
 世界中には実にユニークな酒があり、それを醸すそれぞれの民族は自分たちの酒を通して食文化を形成し、団結し、民族意識を高めているのです。そこには民族の知恵と伝統が込められているのだと天空から無数の星が降り注ぐ静寂の地で思いました。

第96回 2018年6月19日

[温故知新]後世に残したい 茶の伝統 今野宏(寄稿)

 ◇秋田今野商店社長

 新緑の若葉を指先で揉むと、青臭い香りがします。植物により、また季節により青臭さの質と強さが微妙に変わります。この青臭さの本体は青葉アルコールと青葉アルデヒドです。お茶の生葉を摘んだ時などこの香りを強く感じます。
 先日富士の裾野の農園で八十八夜の茶摘みを体験しました。「夏も近づく八十八夜、野にも山にも若葉が茂る…」の歌はおなじみですね。八十八夜とは立春から数えて88日目にあたる日で、5月2日頃です。八十八夜という末広がりのおめでたい日に摘んだ手摘み茶は、柔らかくて甘い極上品として特に喜ばれます。八十八夜の頃は青葉の香りと、茶の旨味テアニン、苦味タンニンの量の調和が最も優れている時期です。ゴワゴワした古葉のついた堅い枝の先に、柔らかくみずみずしい数枚の若葉がピンと伸びていて、親指と人差し指の間に挟んで曲げるとはぜるように折れます。新緑のナイーブとも言える柔らかな葉が私の指先に残した香りはとても印象的で、来てよかったつくづく思いました。
 あかねたすきに菅の笠の茶っきり娘さん達は器用に若葉だけを摘んで、抱えたカゴをたちまち一杯にしてしまいます。同じいでたちの不慣れな私は、丸い茶の木を虎刈りにしただけでした。
 さて新芽を摘んだ後の茶の木は、夏から秋にかけてもまた芽が伸びますが、陽射しが強くなるので渋くなってきます。これを機械で刈ったものが二番茶、三番茶と呼ばれるもので、主にペットボトルなどの緑茶飲料に使われており、その生産量はここ20年で5倍にも増えています。全国の茶の生産量の4割を誇る静岡県では伝統的な手摘みが主体で機械化が遅れ、農家の高齢化や後継者不足もあって近年茶の生産量が落ち込んでいるということです。
 ここ秋田の北限の茶「檜山茶」もしかりです。最盛期には栽培農家が200戸にものぼったと聞きますが、現在では数戸を残すのみ。歴史をつないでいくということはたやすいことではありませんが、伝統ある檜山茶を後世につないでもらいたいものです。

第97回 2018年7月24日

[温故知新]キノコを育てるアリ 今野宏(寄稿)

 ◇秋田今野商店社長

 私が南米北東部の国スリナムを訪れた時のことです。アマゾン奥地のワジャナ族を訪ねた際、オランダの昆虫学者夫妻と一緒になりました。スリナムは国土の80%がジャングルで覆われていて、少し入っただけで新種が発見されるという生物学界の宝の山とも言うべき地です。私はそこで「カビを育てるアリ」に出会い、この昆虫学者夫妻から詳しく話を聞く幸運に恵まれたのです。
 ある日ジャングルの中で私の足元を沢山の葉が独りで歩いていくのを目にしました。それは数百メートルに渡って続き、まさに緑の川のようでした。その正体は、自分の体の何倍もある青々とした葉をアリがせっせと長い列をなして運んでいる驚きの光景でした。そのアリは「ハキリアリ」と呼ばれ、地下の広大な農場に葉を運んで、その葉に特殊なカビを植え付けているのです。このカビは「アリタケ」と呼ばれるキノコの一種で、葉を栄養源にして育ち、ハキリアリの餌となります。アリタケを栽培する地下の農場は生育に適した温度と湿度が保たれ、ハキリアリはその環境を維持するためまさに葉を「ありったけ」運び続けるのです。昆虫学者夫妻のいうとおり、ハキリアリの巣を15センチほど掘ると空洞に突きあたりました。彼らの農場です。この空洞には灰色のスポンジのような土塊が詰まっていました。その正体はハキリアリ5000万年の進化の結晶である「キノコ畑」でした。ハキリアリの運ぶ葉はキノコ畑の菌床として使われていたのです。ハキリアリはその白い菌糸を食べているのです。嗅いでみると確かにキノコ臭がします。人間以外の生物で「農業」を営む生物がいるとはにわかに信じがたいでしょうが、私はアマゾンのジャングルでそれを見てしまったのです。人類の農業の歴史が高々1万年くらいなのに対し、ハキリアリの農業の起源は数千万年とまさに桁違いです。
 ハキリアリはアリタケを食料にするのでアリタケ以外の菌類が混ざらないように常に農場を清掃して外敵からアリタケを守り育てているのです。またハキリアリは葉の繊維質を消化する酵素を持っていないので消化できませんが、アリタケは繊維質分解酵素を持っているので運ばれてきた葉を全てきれいに分解してくれるのです。まさに持ちつ持たれつの関係。人類顔負けのカビの上手な活用法を身に着けているアリに驚くばかりでした。

第98回 2018年8月14日

[温故知新]奇妙な夢誘うチーズ 今野宏(寄稿)

 ◇秋田今野商店社長

 ブルーチーズは牛乳または羊乳から作られるチーズで、アオカビで熟成を行います。語源はアオカビのブルーと、凝固させるというフランス語に由来します。皆さんよくご存知のカマンベールチーズは同じアオカビ(ペニシリウム属)を使いますが、表面に純白のカビが繁殖します。一方ブルーチーズはチーズの内部に緑色のカビが繁殖し、切り口は大理石のような模様になります。カビの生育には当然空気が必要です。そのため内部にカビが繁殖するブルーチーズは、原料になるカードと呼ばれる水を切って固めた凝乳を型に入れ、圧縮せずにカードの間に不定形な隙間を作り、その空間にアオカビを繁殖させます。それだけでは酸素が充分ではないので、さらに針などでチーズに穴を開けて隙間を作り空気を送るのです。
 この発酵に使われるアオカビは、餅やミカンに繁殖するアオカビと異なり毒性がなく安全なものです。通常アオカビの仲間はそのほとんどが食べることのできない毒性を持つものですから注意が必要です。
 三大ブルーチーズと呼ばれるのはフランスのロックフォールチーズ、イタリアのゴルゴンゾーラ、英国のスティルトンです。ゴルゴンゾーラとスティルトンの原料は牛乳ですがロックフォールの原料は羊乳です。
 スティルトンはエリザベス女王の大好物といわれていますが、食べると変な夢を見るチーズとして知られています。英国チーズ委員会が。就寝30分前に20gのチーズを食べるという実験を行ったところ、スティルトンを食べた男性の75%、女性の85%が奇妙な夢を見たというのです。私も早速スティルトンを入手して試してみました。変な夢を見るということは「かなりクセの強い味に違いない」と思ったのですが、意外にもバターの様なまろやかさがあり、香りも強烈ではありませんでした。それでどんな夢を見たか…それは秘密!皆さんもぜひお試しあれ。

第99回 2018年9月11日

[温故知新]菌類が作り出す夢と幻 今野宏(寄稿)

 ◇秋田今野商店社長

 前回のコラムでイギリスのブルーチーズ「スティルトン」を寝る前に食べると変な夢をみると紹介したところ、友人知人が彼のチーズを入手。みた夢の話を聞かされるハメになりました。以前「聖なるキノコ」の話を紹介しましたが、キノコもスティルトンの風味を醸成するアオカビも実は菌類の仲間です。
 菌類は、陸上はもちろん土壌や地下、さらには海洋環境にも暮らしており、数知れない生理活性物質をつくり出す能力を持っています。人間はその能力を利用し、抗生物質をはじめとする多くの薬を開発してきました。
 また、中には催幻覚物質を持つ菌類もあり、世界で特定のキノコが宗教儀式などに用いられています。多くの研究者により菌類のつくり出すこの不思議な物質の解明がされており、いくつかの催幻覚物質成分が発見されています。中でもシロシピンやシロシンは脳内の神経伝達物質セレトニンに作用して僅か0.01グラムで4~6時間にわたりヒトの精神に大きな変容を引き起こすことが知られています。この不思議な力はスイスなどで精神病の治療薬として一時使用されたほどです。
 これも以前紹介したことがありますが、麦の穂にバッカクキンが感染し「麦角」と呼ばれる米粒状の固まりの中に麦角アルカロイドと呼ばれる催幻覚物質が蓄積されます。ドイツでは「エルゴット」と呼び保存する人が沢山いました。興味をそそられたスイスの製薬会社が研究したところ、その化合物の蒸気を吸引すると意識は正常なのに種々の幻覚を起こすことが判明し、麻薬LSDの発見につながりました。この他、ワライタケからも催幻覚成分のサイシロシビンが発見されています。
 ひょっとしたらスティルトンを醸成するアオカビも微弱ながら何らかの催幻覚作用を持っているのかもしれませんね。そうでなければ英国チーズ委員会が就寝30分まえに20グラムのスティルトンを食べた男性の75%、女性の85%が奇妙な夢をみたなどとは発表はしないでしょうから…。

第100回 2018年10月23日

[温故知新]漆と発酵の不思議 今野宏(寄稿)

 ◇秋田今野商店社長

 秋の夜長、漆器の片口と盃での一献は私にとって至福の一時です。今日は漆器に欠かせない漆と発酵の話です。
 漆は言わずと知れた漆の木の樹液です。子供の頃、よく野山を駆け巡り「漆かぶれ」を起こしていました。漆の木の樹液を春から秋にかけて掻き採り集めたものが生漆になるわけですが、掻き採らなければ傷口をふさぐようにして、樹液が黒く変色して固まります。ちょうど人間の血液の血小板と同じように樹液が木を保護するのです。実はこの樹液、微生物にとっては栄養源が適度に含まれているので酵母菌がよく繁殖します。これらは野生酵母と呼ばれ、有用なものを見つけて応用する研究も進んでいます。
 漆の主成分はウルシオールという油で、この油の中に水が分散し乳液状になっています。これに含まれるラッカーゼと呼ばれる酵素が漆の硬化に深く関わっています。この酵素が空気中から酸素を取り込み硬い皮膜をつくります。漆が硬化するには温度(25℃)と湿度(85%)が大切で、カビの発生しやすい環境が漆の硬化の最適条件なのです。漆には野生酵母が繁殖しているのでプツプツと発酵による泡が発生します。野生酵母や漆に含まれている酵素は生きているので、高温をかけて乾かすと死んでしまい、漆は硬化しなくなってしまいます。漆の乾燥とは水分が蒸発して乾く現象ではなく、酵素が液体を固体へと変化させて硬い皮膜を作ることをいいます。まさに漆は生きものなのです。漆は中の酵素が生きて働いているうちは完全に乾かないため、生乾きの漆器でかぶれることもあります。
 漆器の椀の朱と黒のコントラストは実に見事です。この色合いは、半透明で飴色の精製漆にベンガラ等の赤色顔料を加えると朱漆に、鉄粉や水酸化鉄を加えると黒漆になります。
 漆のルーツをたどると足長蜂にたどり着きます。足長蜂の巣を見ると巣の付け根に黒い塊があります。実はそれが漆です。蜂が本能的に漆の硬化する特性を知っていたのでしょうか。一説によるとそれを知った人類が狩猟の時に使う矢じりの取り付け部分に漆を接着剤として利用したのが人間と漆の出会いともいわれています。知れば知るほど不思議で奥深い漆の世界です。今宵は是非、漆器の酒器に満たされた新酒で心も体も「うるおって」ください。そうそう漆も「うるおう」が語源とか…。

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