企業情報
名称 | 株式会社 秋田今野商店 |
本社 | 〒019-2112 秋田県大仙市字刈和野248 |
電話 | 0187-75-1250 |
代表者 | 代表取締役社長 今野 宏 |
設立 | 創業 今野商店(明治43年4月5日) 秋田今野商店(昭和38年12月2日) |
資本金 | 3,600万円 |
決算期 | 6月 |
関連会社 | 株式会社 今野商店(醸造資材商社) 神戸市東灘区御影中町3丁目1-14 |
取引銀行 | 秋田銀行刈和野支店 みずほ銀行秋田支店 北都銀行大曲支店 |
従業員数 | 42名 |
事業内容 | 種麹、酵母菌、乳酸菌の製造販売 有用微生物の製造販売 醸造食品用機器、資材販売 |
アクセス
- 刈和野駅(徒歩:8分、0.5km)
- 大曲駅(車:23分、14.9km)
- 秋田空港(車:25分、23.2km)
- 西仙北IC(車:8分、5.3km)
沿革
明治10年当時、今野家は秋田県刈和野村(現在の秋田今野商店の敷地内)で清酒醸造業、醤油醸造業を家業としていました。
長兄今野清治は大阪高等工業学校醸造科(現・大阪大学工学部)に学び、次兄繁蔵・謙吉とともに明治43年京都で醸造材料商・合名会社今野商店を設立、3年後に大阪に移転し、長兄清治の指導で既に種麹の製造を始めており大正5年には菊正宗酒造の支援のもと御影工場を稼動するに至りました。
当時の種麹造りは非常に原始的でありましたがフラスコを用いた原菌の純粋培養を採用したのは当時としては画期的でした。
その後、太平洋戦争による原料事情の悪化に伴い、米どころである郷里秋田の地に疎開工場を求め、昭和18年から出羽鶴酒造の一画で酒造用種麹の生産を続けていました。
昭和20年3月に戦災で大阪の本社、工場とも灰塵に帰しましたが、同年秋田にて種こうじ製造免許を取得し、昭和22年に今野憲三郎(今野清治の妹の夫)により先祖累代の地、刈和野に工場を新設し、秋田今野商店として現在に至ってます。
その後、今野憲二(憲三郎の次男)が業界に先駆けた、昭和27年の黒麹菌、黄麹菌のガンマー線照射による白色変異株の開発に成功して以来、白ウサミB11菌、白色オリゼー、焼酎白麹などの白色系麹菌株のヒット作があります(平成9年度食品産業優良企業表彰農林水産大臣賞受賞)。
設立以来、数多くの産学官共同研究開発の伝統があり、その中には白色系麹菌(東京大学応用微生物研究所(現・東京大学分子細胞生物学研究所))、非褐変性麹菌「月光」(国税庁醸造試験所(現・酒類総合研究所))、ロイシン酸高生産性麹菌「吟香」(東京農業大学・秋田県醸造試験場)(平成2年度東北発明表彰・発明奨励賞受賞)、麹菌の生産する抗真菌物質「アスペラチン」(秋田県立農業短期大学付属生物工学研究所)などがあり平成5年には生物系特定産業研究推進機構の出資による(株)真菌類機能開発研究所の設立を行いました。平成14年からは国内大手農薬メーカーの生物農薬原体の製造にも手がけております。平成21年には第3回ものづくり日本大賞において東北通産局長賞を伝統技術の応用部門(遊離脂肪酸と抗変異原性に基づく高機能性味噌用種こうじの開発)で受賞、さらには平成22年にその技術の高い新規性により特許庁長官賞を受賞しました。
平成22年には創業101年を迎えるにあたり、神戸の今野もやし(株)と合併し加古川に工場を設置し西日本での強固な地盤を築きました。平成26年には神戸の(株)今野商店を傘下に置き「顧客に満足され」「顧客の支持を受け」「顧客の価値を創造する」という創業の志を大切に守り、次の100年に挑戦していく決意を新たにし、醸造品目の海外市場の拡大動向に合わせ全ての種こうじ、酵母、乳酸菌がコーシャー認証を受けています。平成29年には業界最大規模のバイオインキュベーションセンター(BIC)を立ちあげ新たな微生物産業への挑戦を続けています。同年、経済産業省から「地域未来牽引企業」として、令和元年には「はばたく中小企業・小規模事業者300社」に選定されました。
株式会社秋田今野商店は「微生物で未来を拓く企業」として今後も挑戦を続けてまいります。
創業者 今野清治
純粋培養技術の確立
明治になって、伝統産業の醤油醸造を近代科学の目で見直そうという動きは、日本にやって来た欧米のお雇い学者が、温度計を使って醸造過程を記録することから始まりました。
しかし醸造現場では、優良醤油醸造の基となる「友種」と呼ばれる良く出来た麹に胞子を着生させるまで培養した老麹を種菌として用いる程度で、相変わらず、旧来の杜氏と蔵人による名人芸に頼った醤油造りが行われていました。
河又醤油の試験所長今野清治(こんの せいじ)は、選抜した優良菌を純粋培養で増やし、醤油麹を製造するという画期的な手法を、我国で初めて実際の醸造現場で行い、成功しました。大阪高等工業学校(大阪大学の前身、明治28年設立)、明治34年、全国で初めて醸造学科(醗酵工学科、応用自然科学科の前身)を設け、当時、坪井仙太郎教授が顕微鏡を使って麹菌を選抜し、優良菌を純粋培養するという、西洋でも最先端の技術を教えていました。その指導を受けた第4回生の今野清治(秋田県仙北郡刈和野町、現大仙市出身)が明治38年卒業と同時に河又醤油に入社し、直ちに新設の河又醤油醸造試験場の所長として醤油の麹菌の純粋培養に着手しました。同年秋には早くも優良麹菌を発見し、それを用いた仕込みで良好な成果を挙げました。それまでは、蒸した大豆と炒って挽き割った小麦を混合したものを麹蓋(「こうじぶた」内のり縦約45cm、横約30cm、深さ約3cmの木箱)に盛り込み、麹室の棚に並べて置くとかびが発生し、これをもとに麹を増やしていきました。よい蔵というのは、優良な菌の胞子が浮遊している蔵で当然、蔵には蔵グセがあり、汚染菌が侵入しやすいリスクを持つ蔵もありました。
友種は、前述のとおり前回出来上がった麹の一部をとっておき、これを種麹として使うやり方ですが、良い友種を維持するのは、杜氏の最も重要な仕事で、良い醤油をつくる最初の難関でもありました。しかし、如何に長い経験とすぐれた勘があっても、優良な友種を安定して供給することは至難の業でした。よい蔵に良い麹菌が棲み着いているといいますが、自然界のことですから、いろいろの種類のかびや細菌も同じように付着・浮遊しています。また、有用菌そのものが年を経て、優良な形質が損なわれたり麹の力(酵素)が低下したり、或いは、けかび、くものすかび、青かびなどのいわゆる雑菌により、汚染されたりすると麹の味も悪く、色もどす黒く、異様な臭気が出たりもしました。
清治が行った麹菌の育成の方法は単細胞分離です。まず粘性のあるグリセリン入りの殺菌水に薄めた麹菌胞子を入れ、スライドガラスの上に落とします。それを顕微鏡で見ながらたった1粒の細胞だけを先端のとがった濾紙で吸い取り、その濾紙ごと培養するというものです。
やがてたった1粒の胞子は発芽して麹菌は増えていきます。1粒から発生した米麹を造ってその酵素を測定し、選びに選び抜かれた優秀な1個の胞子を元菌として、培養を繰り返していくという気の遠くなるような地道な作業を行ったのです。
また、清治は「今野フラスコ」と呼ばれる特注のフラスコも考案しました。胞子の着生面積を稼ぐため、通常のフラスコより底面積が広い正三角錐に近い原菌培養専用フラスコです。
清治は、これらの技法を駆使して選抜・純粋化された種麹を今野菌として希望者に惜しみなく頒布していきました。この菌がまさに「今野もやし」のスタートになり急成長していったのです。
河又菌を種菌として使うことにより、麹造りが容易になり、繁殖力が旺盛なので共存する有害菌の増力を抑え、仕込み後に河又菌の持つ強烈なタンパク質分解酵素により旨味成分と独特の風味を醸成するとともに強力な河又菌の持つ糖化酵素により生成された糖分を酵母がアルコール醗酵し、芳醇な香気を生じさせました。河又菌は極めて優れた特色を持つ優良種麹として知られて醤油醸造には欠かせない材料になりました。
今野清治は河又醤油の試験所長として在籍のまま、明治43年弟繁蔵、謙吉と共に京都に今野商店を設立し、後に大阪に移転してから、モヤシ製造部と機械製造部の二部門に拡大し、全国展開を図りました。優良麹菌は、北は東北から南は九州までの需要を充たすため、粉末にして小袋に詰めて郵送しました。
この技術は、今日の品質管理の原点とも言うべく、友種に替わり種麹を使用した醤油醸造業者に大きな喜びを与えたばかりでなく、広く醤油の品質の改善と向上に大きく貢献したことは言うまでもありません。
機械製造部では、河又醤油の機械化成功と併行して多くの特許を取得し、大正10年4月、創立10周年を記念して創刊された雑誌「醸造界」(大阪市西区)を通して醸造機械・器具を販売しました。
今野清治は、この雑誌に常に論文を発表し、昭和初年までに同誌には醤油技術者の論文59報、酒造関係者の論文46報が掲載されています。
今野清治は、昭和8年11月13日に他界し、その早世を惜しまれましたが、志は遺族に受け継がれ、神戸の株式会社今野商店と三兄弟の実家のあった秋田県大仙市刈和野で株式会社秋田今野商店から全国へ種麹の供給が続けられています。
今野清治の在世中、彼を慕って河又醤油の試験場で、実習に励んだ後輩や同業者は弟子は多く、銚子醤油株式会社(現ヒゲタ醤油株式会社)の取締役製造部長をつとめた山崎善一氏は、明治42年7月、大阪高等工業学校醸造科を卒業し、兵役に就くまでの約半年間、今野清治のもとで助手として勤務しました。明治43年には醤油工場で最も難事なもろみ攪拌を河又醤油では既に圧搾空気によっていたと述べています。(調味科学、1974年5月)。
今日の醗酵工業をリードする協和発酵工業株式会社を興された加藤辨三郎博士は、京都帝国大学工学部在学中の大正11年、卒業論文実習に河又醤油を訪れ、今野さんからいろいろ教えを受けたと述懐されています。
また、大阪高等工業学校で後輩の川田正夫氏(カワタ工業株式会社前社長)は、父親が尼崎で醤油系の調味科を造っていましたが、昭和6年に学校を卒業すると河又醤油の今野清治から、麹かびの顕微鏡標本作りをさせられ、一回の標本を採るのに50回もやらされたといいます。一回に1時間要するとして繰り返し50時間もかかります。これで川田氏はプレパラート作りに自信が持てるようになりました。また今野清治は「こんな、目に見えるゴミの沢山ある所では、目に見えない菌を扱えない」と口癖のように言い、掃除ばかりさせられ、すっかり掃除好きになったと感謝の気持ちを書いています。後年、河又醤油の工場が清潔を旨として掃除を徹底していたことは今野清治の指導の宜しきを得た結果です。
河盛又三郎は、今野清治という得難い技術者を迎えたことで彼の多年の懸案であった醤油業の革新をハード(機械化・量産化)とソフト(醸造技術の品質管理)の両面から実施に移すことができました。
河盛又三郎は、実業精励の廉により、大正2年12月9日、勅定緑綬褒章を賜ってその構成を顕彰されました。
日本醸造協会誌第96号 第6号 338(2001)より一部転載
フラスコを用いた原菌の純粋培養
今野フラスコ:胞子の着生面積を稼ぐため通常のフラスコ(右)よりも底面積が広い正三角錐に近い原菌培養専用フラスコ(左)。