第1回 2010年4月21日
[温故知新]この星の命育む微生物 今野宏(寄稿)
◇秋田今野商店社長
私どもは酒を造る「麹菌」を始め、様々な微生物の種菌を製造する会社で、今年でちょうど創業100年になります。このような会社は日本に数社しかなく、東日本に限定すれば10本の酒のうち、7本は私どもの麹菌で造られています。
さて、普通、会社の大事な財産は金庫にしまいますが、私どもの場合、同じ「きんこ」でも「菌庫」が何よりも大事です。その「菌庫」はマイナス85度の冷凍庫で、中には1万株の菌が眠っています。
これらの菌は酒やみそ、しょうゆ、パンやチーズ、薬を造る菌もあり、私達の生活に大きな恩恵をもたらしてくれます。しかし、この地球上にはこの他にもたくさんのミラクルパワーを持つ微生物が存在します。そんな彼らの驚くべき能力を何回かに分けてご紹介していきたいと思います。
彼らは35億年前に地球上に登場しました。35億年前を1月1日として地球カレンダーを作ると、人類が登場したのは12月31日午後11時50分頃になります。人間不在の気の遠くなるような長い時間、彼らはずっと地球の掃除をして、この星を守ってきたのです。
現在、地球上の動植物による有機物の生産量は、年間5000万トン~1兆トンと推察されます。その膨大な量の有機物を、微生物の発酵作用で土や水や炭酸ガスなどに分解してくれているのです。
彼らのこのような働きがなければ、地球上はたちまち動物や植物の遺体で埋まってしまい、自然界の物質循環が停止してあらゆる生物体は完全に滅んでしまいます。
地上の隅々に生息している微生物の自然界での発酵作用がいかに大切であるかがお分かりいただけると思います。
第2回 2010年5月19日
[温故知新]山里の特効薬 今野宏(寄稿)
◇秋田今野商店社長
地球上には多種多様な微生物が生息しており、カビの仲間は7万種ほど知られています。これは地球上に生息するカビの5%に過ぎないと言われています。つまり未知のカビが140万種近くあり、それがアマゾンの奥地や私達のすぐ近くに潜んでいるかもしれないのです。
この「カビ」から生まれた薬の代表格がペニシリンです。ペニシリンは英国のフレミングが80年前に化膿菌をシャーレで培養している時、偶然飛び込んできた青カビが周りの化膿菌を透明に溶かしているのを発見し、青カビが化膿菌の生育阻害物質を造っていると考えつきました。
そしてこの物質を青カビの学名にちなんでペニシリンと名付けたのです。ペニシリンは抗生物質発見以前に比べて約10年も人の寿命を延ばしました。カビは人類にとってまさに「命の恩人」なのです。
私は以前人づてに、阿仁の古老から怪我をした時は傷口に御飯に生えたカビをこねて塗りつけると化膿しないと教えられた…という話を聞いたことがあります。古くからの民間療法なのでしょう。秋田の山里に住む古老は抗生物質が何たるかも知らずに、フレミングよりもずっと先に伝承薬としてこの化膿止めを使いこなしていたのです。
偶然による科学上の大発見です。チャンスはいつもどこにでもあります。ただそれをチャンスと理解できるかどうかが大きな分かれ道となるような気がします。チャンスは用意が出来ている心の持ち主にだけ舞い降りるのです。フレミングはその人だったのでしょう。
このことを思うにつけ、足元にビッグチャンスがいつでも潜んでいるという思いを強くすると共に、微生物を巧みに利用した秋田の先人の驚くべき知恵に、私はただただ脱帽したのです。
第3回 2010年6月16日
[温故知新]日本の味をつくるカビ 今野宏(寄稿)
◇秋田今野商店社長
駅の立喰(たちぐ)いそばの鰹(かつお)だしの香りは、空腹の乗客にはたまらない誘惑です。このそばのだしに使われる鰹節は日本特有の世界一硬い食品で、香りに加え深いコクもあります。
鰹節には魚体を三枚におろして茹(ゆ)で干した「なまり節」、それを薫煙した「荒節」、さらにカビを付けた「枯節」があります。普通鰹節というと、皆さんはあの石のように硬い枯節を思い浮かべると思います。
ではどうやってあんなに硬くなるのでしょうか。その秘密は麹(こうじ)菌の仲間ユーロチウムという「鰹節カビ」の存在にあります。単に燻(いぶ)しただけでは表面が乾燥するだけで内部にはまだ水分が取り残されています。
ところがこのカビを付けると、なまり節の水分を生きる糧とするため、水分を表面に吸い上げ乾燥させてしまいます。表面に密生したカビを払い落としてはカビを再び生やし、その作業を何回も繰り返すことにより極限まで乾燥した鰹節ができるのです。
これにより素材に含まれていた旨味(うまみ)成分が濃縮され、雑菌も生育することが出来ず、保存性が著しく高まります。さらにこのカビの作る酵素が鰹の脂肪の酸化による品質劣化を防ぎ、蛋白(たんぱく)質を分解して旨味のもととなるアミノ酸の一種グルタミン酸を作ります。
鰹節の旨味成分はこのグルタミン酸と核酸の一種イノシン酸によるものです。イノシン酸は魚が生きている時は肉の中にわずかしか含まれませんが、死ぬと猛スピードで増えていきます。そこにグルタミン酸が加わり、相乗効果ではるかに強い旨味を感じるようになるのです。
湿気の多い日本だからこそ成しえたカビの特性を熟知し編み出されたまさに秘技と言えるでしょう。
第4回 2010年7月21日
[温故知新]「微生物ハンター」 今野宏(寄稿)
◇秋田今野商店社長
地球上のどんな環境にも耐えうる驚異の生命体「微生物」。一握りの土には世界の人口にも匹敵する数の微生物が生息しています。
小さな微生物の大きなパワーを求めて、今世界では微生物獲得競争が激しさを増しています。ペニシリンに代表される青カビも、カビの中でも特定の菌種、さらには同じ菌種でも限られた菌株によってしか作られないので、その生産菌を独占した企業は途方もない利益を上げることが出来るのです。少し気の利いた泥棒なら、どんな銀行や美術品を狙うよりも一本の試験管に生えた貴重なカビを盗むほうが割がいいと考えるに違いありません。
特殊な能力を持った微生物はどこに隠れているか分かりません。それを見つけ出すのが「微生物ハンター」の仕事です。微生物ハンターは釣り人と同じで、太公望が釣れる場所や時間、天候をよく知っているように彼らもまた目的の微生物が取れる、そうした条件をよく知っています。また太公望は道具にもこだわります。どこにどんな撒(ま)き餌をし、どんな重りと針でどれくらいの深さに仕掛けるか、いわばこれが名人のノウハウなのですが、微生物ハンターも全く同じで、居そうな所に出向き、目的とする微生物の好物(餌)を準備します。次に天文学的に居るたくさんの微生物の中から目的とする微生物だけを釣り上げる方法を考えているのです。つまりカビを釣り上げたければ、共存する細菌が邪魔になりますから細菌の生育を抑える抗生物質を、細菌を釣り上げたければカビの生育を抑える物を餌に混ぜ込んでおくのです。
この他にも様々な手を使って微生物ハンターは、一獲千金を夢みて人里離れた地で今も釣りを楽しんでいるのです。
第5回 2010年8月18日
[温故知新]貴腐ワインとイチゴ 今野宏(寄稿)
◇秋田今野商店社長
ボトリシスシネレアというカビは灰色カビとも呼ばれ、イチゴを始め多くの果実に寄生する厄介者のカビです。
しかし、このカビはワインの中でも最高級品に分類される「貴腐ワイン」の醸造には欠かすことの出来ないものなのです。なぜならこのカビは読んで字のごとく、ブドウ果実を貴く腐らせるからです。
それはどういうことかというと、ワイン醸造においては添加物を用いてはいけないという規則があるので、甘口のワインを造るためには、原料のブドウ果実に十分な糖分がなければいけません。このカビはブドウ果実に寄生すると果皮下に侵入し、果汁中の水分を蒸散させて糖分を濃縮してくれるのです。
カビ自身による糖の消費もありますが、最終的には糖分が50%にも及びます。こうした糖濃度の高い果汁を原料にすることで、甘みの強いワインが出来るのです。
さらにブドウ果実に寄生した際の大きな特徴は、びっしりとカビが生えているにもかかわらず、全くカビ臭が生じないことです。そればかりか発酵の主役であるアルコールや香りを作る酵母には作用しないボトリンジンという抗菌物質を生じるので良いワインが出来るという報告もあります。
しかし一方でこのカビはイチゴにとっては大敵で、灰色カビ病と呼ばれ、いったん寄生してしまうと見た目が悪くなるだけでなく強烈なカビ臭が生じます。
なぜこのカビがイチゴに特異的に寄生するかというと、イチゴの花粉が水滴に吸い寄せられると花粉の糖類がしみ出してきてカビの発芽を促進するからと考えられています。
同じカビでも寄生する宿主によって人に喜ばれたり嫌われたり……。実に不思議なカビの世界です。
第6回 2010年9月22日
[温故知新]ばいきんまん カビの仲間 今野宏(寄稿)
◇秋田今野商店社長
アンパンマンに出てくるばいきんまんの「ばい」、皆さんは漢字で書けますか。日常語としてまだ多少使われているものの、学術用語としてはほとんど死語になってしまったのが「黴菌(ばいきん)」です。
ばいきんまんのキャラクターと同じで嫌なもの、汚いものと悪いイメージをお持ちの方が多いでしょう。
この黴という難しい漢字は、物が長く雨に当たって黒くなったものという意味で、「黒」と、小さくて見えにくいという意味の「微」が組み合わされて出来たと言われています。
つまり湿気が多くなると生じてくる黒い小さいものという意味で、カビの実態を実によく表しています。もともとはカビを表す「黴」でしたが、一般には黴菌=細菌と考える人が多いようです。
確かにカビと細菌はどちらも微生物ではありますが、体を構成する細胞が根本的に異なるので、生物分類上は動物界と植物界のように大きく異なる世界に生きており、カビはキノコや酵母と同じ菌界、納豆菌や乳酸菌のような細菌はモネラ界に分類されているのです。
「えっ! カビは同じ仲間なの?」と思われる方のために、実はキノコが傘を付けているのは一生のうち、ほんのわずかな期間、それも死ぬ間際の姿なのです。その本体は落ち葉の下に張り巡らされた菌糸という細い糸のような体で出来ています。菌糸の状態のキノコはカビによく似ています。
つまり私たちがキノコと呼んでいるものは、胞子を作る働きをする体の一部で、それが目立つものをキノコ、目立たないものをカビと呼んでいるのです。
また、ビールや酒などの液体の中に単細胞で生きている酵母もキノコやカビの仲間で、菌類と呼ばれている、本来ならばいきんまんの仲間なのです。
第7回 2010年10月20日
[温故知新]ミクロの錬金術師 今野宏(寄稿)
◇秋田今野商店社長
明治時代に日本酒、味噌(みそ)、しょうゆの醸造に用いる麹(こうじ)の伝統の技と近代産業を結び付ける大きな役割を果たしたのは、黒船来航の翌年に富山県高岡市で生まれた高峰譲吉でした。
彼の名前をとったタカジアスターゼは今でもよく消化酵素剤として使われているので、ご存じの方も多いでしょう。麹菌は自ら増殖していく際に、体の外にたくさんの酵素を分泌していく特徴があります。麹菌が体外に出した、いわば汗を集めて粉体状にしたものが酵素です。麹菌は酵素の宝庫と呼ばれて多くの産業に利用されており、私たちの日常生活にはなくてはならない必需品となっています。
高峰は当初、麹をモルトの代わりにウイスキー製造に利用することを考え、米国イリノイ州ピオリアで麹造り工程をビールとウイスキー生産に向けて改良していきました。しかし、米国のモルト製造業者による放火により蒸留所は全焼し、夢破れて、今度は麹の抽出物を消化剤タカジアスターゼとして特許化し販売して大成功を収めたのでした。この時に開発された酵素の製造方法は、現在も脈々と受け継がれています。
タカジアスターゼが世界の酵素化学、ひいては生化学全体の発展に果たした貢献は計り知れないものがあります。他方、これは今日隆盛を見ている酵素工業の先がけともなりました。カビは安価な原料から高い付加価値を生み出してくれる、まさしく錬金術師と言えるでしょう。
ところで高峰でもうひとつ忘れてはならないのが桜です。彼は日本と米国の友好のシンボルとしてワシントン市に桜の苗木を贈り、その桜はポトマック河畔に植樹されました。これがあの有名なワシントンの桜で、今も多くの人に愛されています。
第8回 2010年11月17日
[温故知新]みかん2種類のカビ 今野宏(寄稿)
◇秋田今野商店社長
スーパーで箱売りされる果物というと、まず思い浮かぶのがみかんです。ところが箱買いすると、食べ終わるまでに必ず一つや二つはカビを生やしてしまうのは私だけではないと思います。
このみかんに生えてくるカビを観察していると、不思議なことに気がつきます。腐ったみかんのカビは大まかに分けると2種類あります。
一つはカビの生えている周辺は白く、中心部は緑色をしています。これは青カビの仲間でペニシリウム・デイギタアタムといい、その色から緑カビとも呼ばれています。
もう一つは腐敗が進むと出てくるカビで、きれいな青い胞子をつけるペニシリウム・イタリシウムというカビです。
この2種類のカビが柑橘(かんきつ)類の果物に特異的に寄生するのです。なぜみかんの仲間にだけ寄生するのでしょうか。実は柑橘類の中には、このカビの生育に不可欠な物質が共通して含まれているのです。それはプロリンというアミノ酸の一種で、このカビの発芽や胞子を作るのに大変重要な役割を果たしています。みかんの果皮中にはプロリンが0.34%含まれているのです。
このように、動物の病原菌であれ植物の病原菌であれ、病原性菌が特定の宿主に感染や寄生するのにはそれなりの根拠があるのです。
ところで、皆さんは小さい時にこのプロリンを使った遊びをしているはずです。紙にみかんの汁で絵や字を書いて乾燥させると、もちろんその絵や字は見えないのですが、これをあぶり出すと不思議や不思議、筆でなぞった絵や字が黄色い線となって浮かび出てくる、あのあぶり出しです。これは乾燥している時は無色なのに熱を加えると黄変するというプロリンの性質を巧みに利用したものです。
第9回 2010年12月22日
[温故知新]農薬使わずカビ利用 今野宏(寄稿)
◇秋田今野商店社長
土の中に住んでいる微生物の中には、植物に病気を起こす菌もたくさん住んでいます。そのほとんどがカビです。作物に病気を起こす病原菌を退治するために農薬をかけることが多いのですが、実は土の中にいる悪さをしない微生物や役に立つ微生物も無差別に殺しています。
そこで環境保全の立場から、生態系を乱さず安全に病原菌を退治することが求められ、農薬を使わず土の中にいるカビの力を借りて病原菌を退治する微生物農薬の開発が急速に進められるようになりました。
トリコデルマというカビは、病原菌の体に巻きついたり栄養を横取りしたり、毒を出して病原菌を弱らせたりします。また、土の中にはセンチュウ捕食菌アリスロボトリスというカビがいます。この菌はカウボーイの投げ縄のような輪を作って、そこに入ってきた悪玉センチュウを捕らえ、なんとその輪で絞め殺してしまいます。
アブラムシが好きなボーベリアやバーティシディウムというカビもいます。このカビに取り付かれたアブラムシは全身を菌糸にがんじがらめにされて、ついには死んでしまいます。このように害虫駆除に活躍するカビは多く、カビの特性を利用した殺虫剤の研究も盛んに行われています。
特に日本の場合は古くからの醸造技術がありますから、こうじ菌のように特定のカビを高密度で他の菌を寄せ付けず培養するノウハウは世界的にも高く評価されています。まさに日本はこの分野の研究の第一人者なのです。今後もカビを利用した殺虫剤が続々とこの国から登場してくることでしょう。
第10回 2011年1月19日
[温故知新]世界の歴史変えたカビ 今野宏(寄稿)
◇秋田今野商店社長
カビの中には地中でどんどん広がっていく仲間もたくさんいます。ジャガイモ疫病菌とかジャガイモベト病とも呼ばれるフィトフィトラ・インフェタンスというカビはジャガイモに特異的に発生します。
このカビは遊走糸と呼ばれる動物の精子のように水中を泳ぐことのできる胞子を形成し、土の中を泳ぎまわる変わったカビです。ですから長雨の後によく発生します。
水分が少ない土壌では胞子のうと呼ばれる器官から直接菌糸を伸ばしても増殖が可能で、環境に応じてその機能を変化させることができるのです。
ジャガイモの茎や葉にこのカビが寄生するとジャガイモを軟化させ、悪臭を伴って腐敗し食用とするのが不可能になる厄介な病気です。
さて時は1845年のこと、当時のアイルランドは主食がジャガイモでしたが、天候が不順でジャガイモ疫病が大発生しました。畑から畑へアッと言う間にひろがり、国中を襲ったこのカビの大発生は豊作の翌年に起きました。
その原因は小作人たちが余ったジャガイモのうち病気にかかっていたものを畑に捨てたからだと言われています。これにより100万人のアイルランドの貧しい人々が亡くなり、200万人もの人が新天地を求めて北アメリカに移住しました。
その移民の子孫から1960年に第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディが出たのです。彼の祖先がジャガイモを栽培し、この病気と出くわすことがなかったら、アメリカ大統領という役割をケネディが果たすことはなかったにちがいありません。
目に見えないカビが世界の歴史を変え1人の人間を大統領にまで導いていったのです。